「行ってきまーす」とはならなかった。
あれから12年の歳月が経ち、生後3ヶ月だったポルガは12歳3ヶ月となり、この春から無事に中学生になったけれど、12年前に想像していたような、「行ってきまーす」と快活に挨拶をして登校するようなキャラにはならなかった。反抗期とかではない。小学生の頃からずっとそうだ。しかし性格そのものが気難しくて寡黙ということでも決してない。誰とでも気さくに話すキャラでこそないが、特別おとなしいわけではない。自分の話したいことは物怖じせずいくらでも話す。ただし快活に挨拶をすることはない。要するに、コミュニケーション能力的なものがちょっと欠けている。これはもうそういう人格なんだな、と12年の歳月で悟った。
それでも健やかに成長をしてくれているのだから、親としてそれ以上に望むことがあるだろうか。
12年間で成長したのは子どもだけではない。僕はすっかり親になった。
12年前は、そうか、僕も27歳だったということか。今ちょうど、過去の日記を読み返すという作業をしていて、22歳の頃の日記を読んでいるのだが、大学4年生当時の日記は、ある意味もう地続きではない感じがあり、客観的に読めるけれど、27歳というのはなかなかリアルだと思う。遠いは遠いが、しかしこっち側だ。親になっているし、放射能も浴びている。本当はこの12年ぶりの更新をするまでに、読み返し作業も「KUCHIBASHI DIARY」時代まで進めておきたかった。でもそれはぜんぜんままならなかった。
27歳の僕は、放射能は浴びているが、コロナ禍は経験していない。人生は、世界は、まるで想像していなかった流転で溢れている。12年前は、東京で書店員をしていた。ここから今日までに、3回の引越しをし、8回の転職をした。たぶん平均よりも、流転が激しかったほうの部類ではないかと思う。そのことを俯瞰し、結果として思うことは、住むところや、仕事なんてものは、些末事だということだ。大事なのは自己と家族だけであり、それが病んでいなければ、それ以上のことはないのだ。数え年四十は不惑だという。なるほどな、と思う。この境地に至るまでの12年間が、27歳で書いたひとつ前の記事と、39歳で書いているこの記事との間にはある。
この間に起った大きな出来事としては、なんと言っても次女のピイガの誕生がある。ポルガとは3歳差なので、こちらももう小学4年生になっている。ひとつ前の記事では存在してなかったものが、小学4年生だ。クラクラするじゃないか。
あと、ひとつ前の記事にも登場しているブログマザーこと妻のファルマンだが、この当時からは想像もつかない変化として、数年前にブログをやめたのだった。日々を間近で目の当たりにしている身としてはなんとなく納得もいくのだが、12年前、そんな未来が待ち受けているとは誰も、ファルマン自身も思っていなかっただろう。
僕は12年後の今も書いている。毎日更新ではさすがになくなったけど、まだ書けている。やめる未来は今のところイメージできないが、盤石だと信じていたものだって時機が来れば呆気なく流転するので、どうなるかは分からない。ひとつ前の記事で告知した、「KUCHIBASHI DIARY」のあとを継いだ「USP」は、そのあと7年間ほど運営され、しかしそれも終息し、今はどれがメインということもなく、いろんなブログをやっている。思えば「KUCHIABSHI DIARY」には、絶対に画像を載せないという信念があった。純粋に言葉だけで表現するのだという気概、言い換えれば尖りがあった。それを「青い」などと言ってしまうのは、当時の僕にも、今の僕にもよくない。「かっこいい」と言いたい(ただしポルガが誕生したときに1枚だけ画像をアップしている)。
12年前のブログマザーは、「KUCHIBASHI DIARY」の更新がストップすることについて、「寂しいけど変化は必要だからしょうがないね」と言っていた。万物は流転する。しかし流転する中でも保たれるものはある。それはこれです、と一言で言えるものではない。伝えるには僕の綴ったブログ記事をすべて並べるしか方法がない。
12年ぶりに書くブログというものを、どう書いたらいいのか、まだあまり人類でこれをしたことのある人はいなさそうで、手本となるイメージがないため、あまりにも取り留めのない文章になってしまった。12年前の僕に怒られるかもしれない。そのさまを思い浮かべると、愛しい。そしてそんな12年前の愛しい僕は、現在の僕の中にいるので、要するに僕は僕が愛しい。あ、一言で言えてしまった。
12年間サービスを続けてくれていたseesaaに感謝したい。
どうもありがとう。